空気読んでくれる娘に思う

先月の昼間の風景。

生後半年の娘

私が貧血&低血圧でつらい朝、空気読んでくれてた娘。

申し訳ないなあと思いつつ這いつくばる母を尻目に、ひとり遊びしてくれていました。
(ひとり遊びというか、ストイックに赤ちゃんのすべき運動などに勤しんでるようにしか見えない)

しかし夜、寝かしつけのときには私も多少元気になってるので(貧血と低血圧が良くなってくる)

ベッドからダイブごっこ しやがるんですよね(^_^;)

危険だからやめろー!!

寝かしつけの時間なら母がサッと助けてくれる体力があるとわかってるんだと思うんです。
赤ちゃん、恐ろしい。



一般的なオモチャの他に携帯歯ブラシセットや天然石の丸玉や、さまざまなもので色んな遊びを発見する娘を見ていると、その脳味噌の柔軟さに感動します。

自分にもこんな時代あったのか??

ない気がするけど、記憶にないだけできっとあったんでしょうね。

私が幼いころ、母が自分で作った妄想昔話、でっちあげ昔話を聞かせてくれたことを思い出します。

そういうものは、娘にも継承していこうと思っています。
(世の中には絵本だけではない物語が存在するということを知らしめるつもり)



最近「今まですごく自分は幸せだったのではないか」と感じるようになりました。

私の育った家に存在していたDVという暴力は、肉体的なものより精神的なものの比重がほとんどでした。

しかしさいきん自分にとっての過去が変化してきたようです。

すべての空間に愛は存在していた、ただ、私の家族のやり方はものすごく稚拙だった。

…というのが真実なんだろうと、肚で実感するようになりました。

私は基本的に性善説を支持しているんですね。

私の父はDV野郎でしたが、娘である私は父の中にほぼ「善」しか見ていなかったというのがあります。

だって一緒に生活していると、ろくでなし父ちゃんの中の善良な部分もよく目撃するわけですよ。

人って自分の中の善にフォーカスする人物を前にすると、悪になりきれない人がほとんどだと思うんです。

父はだから、基本ベースがDV野郎でありながらも、
私の前では悪より善でいる時間が多かったのではないかと思います。

でも妻である私の母には、そうではなかったかもしれませんが。

(さいきん樹木希林さんの訃報でかつての記者会見などが流れていますが、内田裕也さんの魂の美しさが云々〜とお話しされてるくだりは、よく理解できる気がしてしまうんですね。勝手ながら。もちろん私は娘の立場から父を見ていたわけなので、状況などすべて違うんですが…)

今は私にも家族ができて、愛しい娘ができました。

ですので、現実的な観点から、今後私は決して父と連絡をとることはありません。

そういう、

父に愛はあるけど離れていく、というのは、大人、親としての判断なのだと思います。

かつて漫画を描いていたころの4年間は、図らずも自分の感情を尊重・最優先するための育成期間になりました。

誰にも支配されず、支配しない生活を作りあげていってたんですね。
そういう、選択の自由が当たり前であるという生活を娘にもさせたい。

いつか自分の家庭のことをブログで漫画にしたい。

エッセイ漫画にするには、自分が過去を振り返るときに湧いてくる感情が、まだまだ変化していて。
一貫した視点で描きにくくて、難しいです。

怒りも失望も愛情も、我が家にはあらゆる感情が存在していたからです。

精神的なDVはあるけど深い愛もちゃんとある、という状況を描くのって、物語としてきちんと描いていくべきなのではないかという気もします。

私自身がかつて、そういう物語としてのDV家庭を描いた作品で救われた時期があるからです。

あれもこれも描きたい、過去の原稿も電子書籍にしたい、勉強したい、でもまだ今はまとまった時間が取れないのはしかたがない。

そういう育児中のモヤモヤの真っ最中です。



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