こんなものには価値がない-25

2018年8月13日

自分と他人の境界線があやふやなことについて。



私は現在アラフォーですが、未だに他人との境界線が曖昧になることに苦しむ瞬間があります。

DV家庭に生まれた人に共通していると思うのですが、

物心ついた頃から、
不幸(に見える)な親の事情を、理解してあげなければなければならなかったという体験です。

今まで何回か書いていますが、

子どもには親を救うという本能があるんじゃないか??と思っています。

親を救ったあとでないと、自分は幸せになってはいけないという本能を、子どもはもともと持っているんじゃないかと思います。

自覚している理性の部分では、支配的(暴力的)な親に対して軽蔑があっても、子どもとしての本能で、

なぜ私の親はこんなに支配的にならなければならなかったのか??

と、どうしても考えてしまうものじゃないかなと感じています。



その答えを思春期にはうっすら見つけて、

だんだん親への同情や、理解しようという気持ちがあふれてきて。

でも、

自分自身も大事にしたいんだ!!

という自己愛との葛藤が、その後の親への怒りに変化するんじゃないかという気がしてなりません。

家庭で大事にされない自分自身を、自分ひとりで守る、ということは、これも本能だと思うんです。

でも親に対して、理解してあげたい!と思う愛情も、本能だと思っています。

人間の最も本能的な欲求は「愛したい」というものじゃないかという気がしています。

究極、愛されなくても、誰か(人間に限らない)を愛することができれば、

その愛情を当たり前のように受け取ってもらえれば、

その後の人生はDV親をなぞることなく、子どもは自分の幸せを追求していけるものなのだろうと考えています。

父はよく喋る人でしたが、自分の感情を言語化するのがうまい人ではありませんでした。

思春期にそんな父のことを、
母や、父のほんのわずかな会話から、少しずつ知っていきました。
(それでも母に比べて圧倒的に父の実家の情報量は少なかったです)

祖母の浮気の子だと言われて無視をされ、お小遣いも学費ももらえなかったらしい父。

父は祖父母の関心を買うために、兄弟の中で唯一大学に行くなど、思いつく範囲でできる努力はしたけれど、言葉で褒めてもらうだけで、学費は出してもらえなかったということ。
(実家にお金はそこそこあったのに、です)

父が若いころ、無関心な態度しか与えられなかったらしい実家の事情に、子どもとして同情する部分はあります。

単純にかわいそうなことだなあ、とも思います。

ですが、それは父の家庭の事情です。
妻や子どもは、無関係な他人です。

自分が作った家庭を、ほぼ八つ当たり(DV)の場にしてしまうのは、よくないことです。

少し前までは、愛情を健全に表現する方法を知らない父への同情の気持ちはありましたが、今はそんなにありません。

私自身も、自分の過去を切り離すような気がして痛いんですが、

それでも、私が父だったら、家族に同じようなことしただろうか??

と考えたとき、

いや、多分、しないだろう。

そう気づく出来事があって。
それからは、父(と母)を理解しようという気持ちが薄れました。

父と母と、私は、血が繋がっているだけで、まったくの他人でしかない。

そう実感したとき、私の中で、両親がはじめてただの人に変わりました。



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