こんなものには価値がない-22

2018年7月20日

今でもふと、

あれはDV、虐待、と言えるほどのものではなかったんじゃないか?

という気持ちになってしまうことがあります。




きっと、
過去をなんとか乗り切ったわけだし、過去の記憶の中で、楽しかったこともそこそこあるし、そこまでひどい目にあっていたわけじゃないんじゃないかな?

すべては自分の被害妄想じゃないのか??

なんて。
自分を疑ってしまうんですね。

もし記憶を改竄できるんだったら、もしかしたらそのほうがいいのかもしれませんが。

でももしそうやって現状を完全否定せずに受け入れていたら、

きっと今も家族3人で殺伐とした生活を送っていたでしょう。

自分を疑うたびに自分に言い聞かせるようにしています。

実の父に真剣に「死んでもいいよ」なんて、一般家庭では言われねーよ。

そもそもこういう横暴なことをいったり、したりする父と、もう2度と関わらない!
と決めることのほうが、ずっと愛情深いし。

と。




思いやりや愛情ってなんなんだろうと考えることがあります。

私は、私の未熟で少ない人生の中で、

不毛に支配することを許さない&受け入れない

ということが愛情ではないか、という感触を持っています。

どうしても出自がDV家庭なので、とても低いところでの実感になってしまいます。

無駄な暴力、生産性のない支配などとは、無縁で生きてる人もいるわけですから。
それと比べたら、ずいぶん低い位置からの利他愛だなと、思ってしまうんですね。

私にとっては「許さない」が、愛情。

なぜそうなのかというと、暴力的な支配を許すと相手が悪者になり続けるし、何より私が愛せなくなるからです。

父を愛せなくなる、信頼できなくなる、だからそういうことをしてほしくない。

だからできる限りの抵抗と訴えをし続けたと思いますが、

結局、両親の離婚までに、父に何かが伝わるということはなかった。

私も、父のように暴力的ではないけれども、支配的なのだと思います。

私の中にある、安全地帯(家族や身内)のルールを、誰かが破ることを許せません。

ですから、無償の愛、というものに、未だ興味を持つことができません。
(ちょっと飛躍してますが)

無償の愛というものを、言葉通りの薄いものだと思ったことはありませんが、イマイチ実感がわきません。

周囲に無償の愛でうまくいっている家庭のモデルケースを見たことがない気がしているんですね。

でも子どもを産んだ今、私自身がまた次の段階に進むのだと思うので、

無償の愛については、きっとこれから考えていくことなのかも知れません。



Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です